江戸時代以前の武蔵野

1、「原野」としての武蔵野;

「行く末は空も一つの武蔵野に草の原よりいづる月影」(古今和歌集)41422藤原良経 →草深く、果てしないイメージを伴う武蔵野の景観。

2、16世紀 後北条氏の時代から 武蔵野の「浅水帯」(5m掘ると水が出る)に人が住み始める。

3、しかしながら 武蔵野台地は 奈良時代には東山道武蔵路、鎌倉時代には鎌倉街道があり 交通の要所であった。

東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)の通り道で 古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。

鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち);鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち)[6]として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、高崎->山名->奈良梨->笛吹峠->入間->所沢->府中->(小野路[7])->本町田->瀬谷->化粧坂->鎌倉のルートである。


江戸時代前期(17世紀)の新田開発

 慶長8年(1603年)江戸に幕府を開いて以来近世国家の政治の中心となった為 武家屋敷の増加、町人の増加により 忽ちに水不足に陥り 承応2年(1653年)玉川上水開削。

  •  玉川上水が開削される以前、小平周辺の武蔵野台地はわずかに集落が見られたのは狭山丘陵の麓や国分寺崖線付近だけで、小平エリアは南北を通る旧鎌倉街道は寂れ、東西方向の青梅街道(成木街道)が通っているのみ、集落のない茫漠たる原野であった。

 17世紀初期から中頃に開かれた村は新町村(青梅市)、砂川村(立川市)、矢ヶ崎村(調布市)、境村(武蔵野市)、中高井戸村(杉並区)、下連雀村(三鷹市)等々。



小川村新田の開発事例

 玉川上水開削後3年(1656年)、岸村の土豪小川九郎兵衛が代官に開発を出願。小川村に許可された理由として 成木,小曾木から江戸城築城の為大量の石灰が青梅街道経由で運搬されていたが

①箱根ヶ崎と田無間20㌔は無人の荒野で通行の難所。

②どうしても伝馬宿(中継宿)が必要。(入村請書の条件として 屋敷を空けない、馬の所有)

 開発後約20年経った延宝2年(1674年)の2代目の市郎兵衛が残した開発の 景観は「短冊形地割図」の通りである。特徴は

①青梅街道を挟んで南北に小川分水(飲料用)

②短冊形地割

⓷作場と武蔵野

・作場=地割内の畑に加えて 希望者に分け与えられる「耕地」。

・武蔵野=薪,秣(馬草)等の採取。

この「地割図」を現在のGoogleMap  と比較しても主要道路はほぼ同じ。



江戸中期(18世紀)の新田開発

 元禄年間は入会地の新田開発は周辺の採草地を潰す恐れがありとのことで開発を許可しなくなったが 年貢収入が限界となり 幕府は全国的に新田開発を奨励することになった。享保7年(1722年)に新田開発の高札(コウサツ)を日本橋に立てた。これに応募する形で武蔵国4郡(多摩、新座、入間、高麗)に約80の新田が開かれた。小平エリアでも大沼田分水、鈴木分水、野中分水などが開削され、小川新田、鈴木新田、野中新田、大沼田新田、廻り田新田が開発された。

 


 新田開発には、代官や藩が行う官営のものと民営の二つの方式あり。小平周辺は後者の民営で行われる。その方法は、土豪・村請負・百姓寄合・町人請負と4つあり。

・土豪開発新田;小川氏の九郎兵衛が開発した小川村。

・村請負開発新田;村人がみんなで決めて新しい土地を開発して、その土地を切り分けるもので、小川新田・大沼田新田・鈴木新田・廻り田新田。元の村を親村といい、新しく開発した村を小村と言う。小平駐屯地のある場所は、この当時小川村が親村となって開発した小川新田。

・百姓寄合開発新田;有力な農民が何人かで仲間になって開発して、出したお金の金額に比例して土地を分けるもので、野中新田がこれに当たる。

・町人請負はこの時代、小平では見られない。



― 武蔵野新田開発の事例―大沼田新田

 オンタ村(現東村山市)の名主當麻弥左衛門が享保6年に出願、9年に許可。同21年の「村絵図」の模式図は下記。

・玉川上水より飲料水を取水

・街道に沿った短冊型地割

・持添分(親村に居住しながら通勤して耕作する)と出百姓分(新規移住して耕作)の二つの領域。

・土地の構成は 野畑41%、林畑14.7%、畑42.7%、田0.3%、屋敷1.2%と野畑・林畑が半分以上占める



― 武蔵野新田開発の立役者 ―川崎平右衛門

 八代将軍徳川吉宗は、享保の改革と呼ばれるさまざまな政策を実施。足高の制や町火消しの設置などが知られていますが、年貢の収入を増やすための大規模な新田開発もそのひとつです。多摩地域に広がる武蔵野新田もこの時期。しかし、その経営は必ずしも順調なものでは無かった。そこで武蔵野新田の担当であった町奉行大岡忠相は地域を知る人物に白羽の矢を立て、武蔵野新田の運営を任せる。それが武蔵国押立(おしだて)村の名主川崎平右衛門。平右衛門は期待に応え武蔵野新田の立て直しを図り、次第に村々の経営は安定させる。この功績により平右衛門は武士として取り立てられ、幕府の代官として、現在の岐阜県や島根県に赴き、武蔵野新田で培った手腕を発揮。


江戸後期(19世紀)の新田開発

 武蔵野台地も18世紀後半から19世紀にかけこのエリアの再開発に向けて新展開がなされた。

1、水田の造成計画(畑田成)

2、物資流通拠点の構築計画

1、水田の造成計画(畑田成)

・文政2年(1819年)小川小太夫は既存の畑を水田に変える構想(「畑田成之儀ニ付申上げ候書付」(小川家文書))。彼は「国益」と言う論理を掲げ 武蔵野新田や多摩郡西部の村々で畑を田に替える工事を構想した。

・基本的には村々の飲み水の残水が落ちる「湿地」を水田に替える構想であったが「頑愚」な百姓の抵抗に遭遇する。

・「畑田成」が見込まれた村は 玉川上水からの取水で22ヶ村々。

・これに加えて 多摩郡小曾木村から谷川を引き取り、箱根ヶ崎村辺りに流し込めば、村山郷15の村でも多くの「畑田成」が出来、更に川船を通行させ、年貢米を輸送できる構想を練った。

2、物資流通拠点の構築計画

・明和7年(1770年)小川東潘が幕府へ玉川上水を利用しての「通船」を願い出る(「玉川御上水通船仕用目論見帳」(小川家文書))。

・小川村と四谷大木戸、内藤新宿天竜寺の間に、幅6~7尺、長さ6~7間のひらた船20艘を往復させ,1ヶ月で6往復運航。荷物は一艘に付25駄を積載。

・積載物は

<上り(江戸から)>肥料(米糠)、醤油、酢、酒、味噌、塩、木綿、瀬戸物、荒物、小間物、肴、紙、煙草。

<下り(江戸へ)>薪炭、材木、米穀類、野菜、織物

・小川村を青梅、八王子、所沢からの物資の一大集積地、結節点として計画したが 不許可となる。