4、運命に翻弄された祖父儀平の人生

 祖父儀平は昭和19年に74歳で亡くなった。小生の生まれは昭和16年。3歳だったので勿論全く記憶にはない。左の写真は昭和17年後半であろうか 合戦場から72歳の祖父が日立多賀に来訪。祖父に抱かれた万里姉の写真は残っている。母に抱かれているのは早苗次姉。

 上の写真は祖父が72歳の頃、亡くなる2年前。流石 末娘の禮子が結婚し片付き 子供も3人生まれ。穏やかな顔つきの写真である。しかし乍ら 19歳の時 父親惣八が亡くなり 長男として厳しい生活・人生環境を強いられてのか 明るい笑顔の写真は残っていない。いつも顰め面の写真が多い。

 下記は 祖父が亡くなった昭和19年の小平家の様子を 父輝吉の日記から拾ってみた。


<昭和19年の父の日記>より;昭和19年は戦時色が益々色濃く 小平家も多難な年てあった。

 祖父葬儀の頃の様子(父の日記より)

・(昭和19年1月30日);夕食後八時頃合戦場の父危篤の由電報来る。禮子に明日朝出発するようにと話して休む。十二時ごろ「父死す」との電報あり。朝方迄微睡もならず過す。

(昭和19年1月31日);禮子と一緒に七時半多賀発の汽車に乗車 合戦場に行く。三組町の伯父(注:小平浪平)と一緒になる。父の穏やかなる往生の姿に会う。夕方 納棺して祭壇を作る。親戚一同にて通夜す。

(昭和19年2月1日);朝七半で合戦場に行く。風もなく割と暖かし。一時に告別式、親戚一同集まる。二時より一般の告別式。個人の遺志で通知を出さぬので割と人も少なし。三時出棺。栃木の火葬場で野辺の送りをす。親戚一同で何かと雑談す。

(昭和19年2月2日);朝六時 寒風を衝いて火葬場で骨を上げて 八時家に戻る。十時半より最後の別れの式。十一時埋骨式。寒さ身に滲む、粉雪飛ぶ。一時の電車で禮子と戻る。七時帰宅。子供達の喜びに驚く様も まるで夢の如し。

(昭和19年2月19日);大雪なり。亀有工場に行く。哲三兄に会う。23日より市川85連隊に入隊する由。大変なり。

(昭和19年3月15日);知二兄多賀工場の出張終了し栃木に帰る。(注;新設された栃木工場で艦船用の機関砲を製造することになり 移管元の多賀工場に 知二伯父長期出張)。

(昭和19年3月16日);禮子 万里を連れて合戦場に父の五十日祭に出掛ける。七時半に乗る予定で切符が買えず十時で出発せる由。