6、「晃南日記」の解説

浪平の「晃南日記」ついては 下記URL参照

https://kounan-nikki.jimdofree.com/



浪平に影響を与えたのは ①村井弦斎 ②竹内維彦の二人と思っています。

 
この通リ。足立さんの言う通リ。この二人はこの世で出会った本当の親友であった。家族の悲しい出来事も浪平は全て事業大成功のエネルギー に変えた。母上の悲しみと苦労。家兄儀平の苦労、悲しみ、最初の儀平の妻チカの不幸。惣八の無念の想い。解りました。この浪平が心に深く受け止め、日本国を隆盛に導く大仕事をやり遂げまする。草場の影で見ていて下され!!お父上、浪平を見ていて下され!!

・村井弦斎は浪平より12歳上。気位が高く、教養のある一族であったが、幕末で賊軍となった親爺の強い影響を受けた人物。又 気難しい性格であったが 何故か浪平を可愛がった。これは浪平の天性の性格が そうさせたのか?二人の関係は下記添付PDF「弦斎・浪平関係年譜」参照下さい。

文芸家や武芸者は1代本人のみで終る。宮本武蔵。ベートーベン。部下に天才がいないから。村井は天才であった。浪平にも似た所があった。後継の社長共には遂に浪平を超える社長は出ていない!!

・竹内維彦は浪平と同じ明治7年生まれ。高校時代は同級生の仲良し。「小平さんの想い出」スナップ写真に一緒に写っている。
浪平は電気工学、維彦は採鉱冶金を専攻。維彦は学生時代に開発した「自溶精錬法」を小坂鉱山で実現すべく明治32年に小坂入社。浪平は大学時代落第しているので翌年の明治33年小坂入社。維彦は精錬技術を実現するには どうしても電気・機械のインフラ技術は必須と判断し 浪平を小坂に誘った。明治38年久原が日立鉱山に投資した時も 維彦は一緒に移っている。日立鉱山に浪平を誘ったのも維彦。久原の反対を押し切って日立創業時をサポートしたのも維彦。

竹内は晩年妻と共に故郷へ引っ込み隠遁した。鮎川や久原の寄付要請にも応じていない。こいつらの面の皮の厚さに嫌気が差した。

日立創業時の実質的立役者は維彦とみているが 日立の正史にはどこにも載っていない。久原が一番信頼していた人物。彼も士族出身の野武士。残念ながら昭和20年に亡くなっている。

竹内は親友であり浪平を大事業家へ押し上げた運命的サポーターあった。「野武士 浪平」にはそのように記させて頂きたい。久原と鮎川は2流経営者の反面教師として登場お願いする。浪平は鉱山へ行かなくても大事業を成すだけの爆発エネルギーが蓄積されておりました。

二人とも 久原にしたたかに使われたが したたかに自分の夢実現の為に 久原を利用した(同床異夢)。
 
その通リですがご両人ともあの世のお方ですから程々に攻撃しましょう。

・浪平は ”いざ鎌倉” の流れを引く野武士:佐野源左衛門常代の生まれ変わりか?
 
足立さん、これは真実でした。浪平は明治天皇を神様の様に崇敬し諸外国に飲み込まれようとする日本の大防波堤となりました。700年の時を経て「いざ 日本の国難!」となったのでしょうか。

 

  日本の三菱、住友、財閥は子孫に資産を大株主として残し会社の経営を末永く独占した。徳川15代と同じ。浪平は「会社は公器」と明言した。源左衛門の「いざ! 鎌倉!」は「いざ!国難!」に進化していた。浪平は本物の武士であった。今の政治家や経営者は浪平の「爪の垢を煎じて飲むが良い。特効薬」である。

 

 昭和初期の大不況時に久原商事倒産。このタイミングで浪平は 日立製作所の経営権を久原から取り戻し

100%握り、久原の呪縛からも解放されます。そして この時期から終戦まで 日立の大躍進が始まります。

久原は政界に進出---浪平は金銭面で恩返しします。

 

事業の失敗を尻拭いさせた上で今度は政治資金をたかるとは事業家の風上にも置けない。その辺を世間の評判と言う形でやんわりと化けの皮をはがす必要がある。こいつをほめると告別式の弔辞になり、読んでも読者は眠くなるだけ。

 

母チヨ、兄儀平への恩返しーーー地元合戦場への寄付金を 母チヨ、兄儀平を通して実施。

兄儀平は実直な仕事が実って第一銀行の栃木支店長に昇任。

 

丁度昭和一桁時代に儀平の子供達が成人に達し、3人の男の子の就職先は日立に斡旋、兄儀平への恩返し。

・知二;慶応を出て経理部門へ、(栃)設立時に (栃)に転勤させる。

・哲三;慶応を出て(有)へ。

・裕四郎;薬学部を出て設立間もない(日病)の薬局長。

・礼子;結婚相手の条件は <一高東大出、氏族>。この条件は父親儀平が果しへ無かった条件。

たまたまこの条件に当てはまったのが昭和10年日立入社の親爺輝吉。知二の妻千代子と同じ足利出身

であり、当時田舎中学4年で一高入学は珍しかった。彼女の紹介で見合い・結婚。

 

ご恩を受けたすべての方々へご恩返しをするのは当然の行いである。特に家族。母上、儀平兄。そして甥や姪。兄弟姉妹。浪平は慈悲深い神の如くささやかながら恩返しをした。

 

村井弦斎の死後 別荘地5000坪の買取り。

 

村井玄斎に大きく成長した日立を見せたかった。先生が喜ぶ姿を見たかった。親友竹内にも見せたかった。今頃天国から今の日立を見ている。苦笑していると思う。

 

このように 浪平はお世話になった人への義理堅い恩返しをしている。当時頭が痛かったのは 長男良平の女遊び。下半身だけは 別人格なので 浪平と雖もコントロールできなかったらしい。

 

この世に浪平ほどの大偉人でもコントロールできないものがある事を教えるために良平は生れたか。女遊びは祖母のヨシがいまはの際に浪平に遺言した。「オナゴにだけは手を出すな!」「オナゴは身を亡ぼす!」これは現代ではセクハラとして罪になりますが真実である。