4-1 早かった父親の死

 曾祖父惣八は31歳の時 栃木市城内町の大沢家から 縁あって18歳のチヨのところへ婿入してきた。大沢家の3男で、現在の古河市の造り酒屋(屋号”坂長”)佐藤家に婿に入り二女をもうけたが 訳あって離縁。大沢家は商家で 城内町の屋敷は1000坪、巴波川に流れ込んでいた杢冷川が庭を横切り 池には二尺を超す緋鯉真鯉が遊泳していたというから相当の大家。今でも「大沢」という姓で商売をしているお店が栃木市内には数軒ある。

 

 惣八は痩せぎすな、目つきの精悍な人、大行李に刻み煙草を常に絶やさなかった。時代が時代であったから、寺小屋で受けた以上の教育はなかったが、元来知識欲の盛んな人で、当時地方の農村にも感じ取られた文明開化の風潮に痛く刺激されて、子供たちの教育には非常に力を入れていた。蔵の二階の桐の本箱十数個を作り、四書五経・史記・佐伝・文章軌範等と言った漢籍を購入し、子供達の読書の資料とした。

 

 一方惣八は子供の玩具から家庭の実用器具に至るまでこれを手製するといった器用な人で 大工道具、経師屋の道具、その他必要な道具は何でも揃えていた。又書画骨董を愛し、相当な鑑識眼を持っていたが、それに深入りしなかったのは、外にも、二三の事業(福島県での石炭開発等)に手を出し、家産を相当に傾けていた為と思われる。

 前掲の3-2知二伯父「祖父惣八の事業の失敗」と一部重なるが 惣八は亡くなる2~3年前から屋敷の納屋を製造場と称して改造し、鉛丹(酸化鉛)の製造を開始。東京から鉛を仕入れ、自家の山林から薪を切り出し、隣の平川村の水車を利用し、数個の火炉で鉛を溶かして鉛丹を製造したのである。目的は舟底の塗料原料にするためである。結果は苦心惨憺の上1,2年で廃業し、失敗に終わる。理由は 収支が合わなかったことに加え、既に上野―宇都宮間の鉄道が開業(明治18年)し、巴波川の舟運が衰え出し鉛丹塗料の需要が無くなっていたのである。

 この事業失敗は 結果的に二つの幸運をもたらした。

 

 一つは もしこの事業が成功していたら 家族が鉛中毒で全滅していたかもしれないと思われる。惣八は亡くなる一年前には床に臥し、死を予感したのか 家督を第一高等中学に入ったばかりの19歳の儀平に譲っていたのである(明治23年1月に家督相続)。この時期は鉛丹事業を始めて1年足らずである。恐らく明らかに鉛中毒に罹ったのであろう。

 

 二つ目は この事業の失敗が 儀平・浪平兄弟の運命を左右し、特に未だ予備校生だった浪平の心に深く刻み込まれ、「事業は失敗したりと雖も 余が工業に志し、父の希望に副はむと云う考えを起こしたるは、此の為なりと思う時には、此の事業は決して失敗に非ず、日立製作所の種子とも見る得べし」終戦後に書き残した『身辺雑記』に追懐している。

 炭鉱事業に大金を投じ、山林払い下げに奔走し、新規事業の鉛丹製造に失敗し、病に臥し、日光おろしも寒い明治23年12月25日惣八は数え年49歳を以て 不帰の人となった。