資料2;昭和13年1月の戸籍謄本

手元に昭和13年1月20日付けの小平家の戸籍謄本が残っている。この年の3月13日は親爺・お袋の結婚式。結納を控え 両家が戸籍謄本を取交したものと思われる。家父長制のこの時代 戸主をはじめ除籍者を含め37名が載っている。

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小平家戸籍謄本(昭和13年1月).pdf
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資料3;小平家の藩主関宿藩久世氏

 現在の栃木市の一部は 所謂 幕府の直轄地。合戦場・大平町は関宿藩の知行地であった。小平家は合戦場の知行地の年貢取り立て等々を任され 特に幕末頃頻繁に関宿に呼び出されていた模様。

 

 平成7年に野田市関宿三軒家に「関宿城博物館」が建設され この地の戦略上の歴史と文化を探る基点となっている。

 近世の関宿藩は、江戸城の外城として重要視され、松平康元(家康の異父弟)が1590年(天正18年)に2万石で入城。以来小笠原、北条、牧野、板倉、久世と代々譜代大名を配置。天守閣は皇居内の富士見櫓を模して1671年(寛文11年)再建され、1874年(明治7年)取り壊された。本丸跡は、現在地より500m南にわずかに残っている。


 栃木から関宿へは 小型の底が平べったい部賀舟で巴波川で南下し、現在の渡良瀬遊水地近くの部屋河岸で 高瀬舟に乗り換え 渡良瀬川に合流。利根川に出て江戸川の入り口にある関宿へ。江戸へは東京湾手前の小名木川を経由して日本橋河岸で下船。


 23代に及ぶ関宿藩主の中でも久世氏の治世は最も長く、1669年(寛文9年)から幕末まで9人の藩主。うち広之、重之、広明、広周の4人の老中を輩出。加えて大阪城代、京都所司代、神社奉行の要職に就く。中でも 幕末にかけて広周は、老中として安藤信正と共に公武合体運動に力を尽くし、歴史に残る活躍をし、藩内においても治水事業、教育を奨め、領民から尤も慕われていた藩主と言われている。