3、元禄の頃かから明治時代までの小平家は?

3-1 合戦場には17世紀の元禄の頃安蘇郡から移り住んでいた

・小平家の遠祖は前述の如く『佐野氏の拠点であった安蘇郡下に関しては、伝説の「佐野常世」から7世後裔の伊豆守常行の息子・若狭守宗行が同郡小平郷に因み 小平姓を称え、初代の古河公方たる足利成氏に仕え その係累は慶長年間に途絶えた』。要は 徳川幕府体制が固まった慶長年間(17世紀前半)に途絶えてしまった。

 

・歴史に再登場するのはほぼ150年後 合戦場にある小平宗家のお墓にある墓標からである。下記pdf「小平家の系譜」(現在の当主小平道彦兄調査情報より作成)から推定すると合戦場に移り住んだのは江戸中期即ち18世紀の中ごろからと思われる。家系は女系が多く 婿養子が何代か続いている。一番古い小平葉津子は天保9年(1838年)72歳で亡くなったので生まれは明和3年(1766年)。隣村の川原田の大橋家から婿養子に来た佐右衛門はほぼ同時期に生まれたものと思われる。

 

・この時期は例幣使の日光東照宮詣でが始まってほぼ100年。街道筋もかなり整備され 主要な幕閣の1人であった千葉県関宿藩主久世大和守に 合戦場宿を含め下都賀郡を知行地として割り当てられたものと思われる。

何故 小平家がこの地 合戦場で関宿藩久世家の名主職になった時期・キッカケは不詳。


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江戸中期から幕末までの小平総本家家系図
小平家先祖2(江戸中期から幕末).pdf
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<参考>合戦場と言う地名の由来

 室町時代の大永三年(1523年)皆川氏4代城主皆川宮内少輔宗成が、宇都宮城主宇都宮下野守忠綱に攻められて戦い、敵方に全滅的打撃を与えながらも、流れ矢に当たって、壮烈な戦死を遂げたその合戦場であった。その時の戦死者を埋めて、12間4面、高さ4間の桝型の塚を築いて弔った。この戦を『川原田合戦』と呼ばれ、戦死者の血が沼が赤く染まるほどの修羅場となったので“修羅地沼”それを転じて“白血沼”の地名となったという。この升塚は この時の両軍の戦死者葬った塚であるとされている。東武日光線『合戦場駅』は駅名でも有名でもある。       

 

もっと詳しくは「銀次のブログ」参照。


<参考>東武線合戦場駅

 東武日光線合戦場駅は昭和4年4月開業。現在の駅舎は平成19年に改築されたがそれまでは木造駅舎。最近の1日の乗車人員は300人前後。利用客は朝夕の通勤客・学生であろうから 撮影した時間帯は 昼間のため利用客は見当たらなかった。

 

 左の写真は合戦場駅プラットホームに立つ祖父。昭和6年5月25日 東武電車雷門駅開通一番乗りで上京。

自らを「東武紳士」と呼んでいたのか?

1931年(昭和6年)5月25日 - 東武鉄道の駅が浅草雷門駅として開業、乗換駅となる。浅草駅ビルは1931年(昭和6年)11月に関東では初となる本格的な百貨店併設のターミナルビルとして開業した)

 

 

 

 

 

 左の写真は 昭和9年1月に上京時 合戦場駅プラットホームで撮影されて祖父の写真である(撮影者は三男の祐四郎と書いてある)。


<参考>しめじが原

 合戦場駅から車で 西方ほぼ2~3分の所に教育委員会の「標茅が原(しめちがはら)」史跡解説板がある。

 このエリアが巴波川の源流。下の写真は湧水の一つ「白地沼」だったが 吹上にサントリー工場が出来た後 沼は干されたと土地の人は言う。

 

「白地沼」の名前の由来は 大永3年(1522年)の「川原田合戦」時、戦死者の血で沼が赤く染まる程の修羅場となったので「修羅地沼」これが転じて「白血沼」→「白地沼」らしい。

 

 

 

<参考>升塚

 合戦場駅から街道を北に向かい 升塚十字路信号の手前50mの細い道を右折すると 直ぐに小高い塚が現れる。標高は20m位か。車で約5分。

 塚の上には 石碑と 南側には櫻の大木がある。

 

 大永3年(1522年)の「川原田合戦」時、戦死者 両軍合わせて310人だったと言う。


<参考>長宮神社

 東北自動車道の西側に長宮神社がある。古墳の上に建てられた神社か?廃神社になってしまうのか?

眼光鋭く、ロングヘアの狛犬が印象的。

祭神:伊佐奈岐命・伊佐奈美命の表記で伝わる。具土神・思兼(金神・大雷
弘化三年1846の「長宮大明神」額。野中には幕末の剣豪・能書家山岡が晩年を過したので鉄舟の書が多数残る。

例祭:4月15日*

『下野神社沿革誌』明治三十六年1903 巻四-13丁
下都賀郡吹上村大字野中鎭座 村社 長宮神社 祭神 伊弉冊命
建物本社間口二間奥行三間 末社二社 氏子百五戸
本社創建不詳 社域一千十一坪を有し 字米山の高燥の地に在り