2 武士の台頭と足立氏の遠祖

2-1 武士の台頭

 足立氏の「ふるさと」は「坂東」で、いまの関東地方を坂東というのは、足柄、碓氷のよりということで、二つの峠によって外から隔てられ、大和朝廷への服属もおくれ、異域とされていて、坂東の北方は蝦夷の住む「みちのく」であり、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の八国があり、これを坂東八カ国という。 

 

 足立氏の先祖は、この坂東の地、武蔵国の足立郡に本拠をおく坂東武者、武蔵武士である。この地域は律令制が衰えると国家権力の統制がきかなくなり、秩序が崩れて内乱が頻発するなどして独立の気風があり。足立郡の足立氏を考えるには、平将門の乱(天慶3年、940)ころまで遡る。それは「国史大辞典」(吉川弘文館)で 平将門に従った武蔵武芝の流れが 足立氏の先祖だとされていることを調査して見る。 

 平将門(903~940)は坂東を根拠地として、天慶の乱をおこし、古代貴族国家に対し初めて本格的に武装反乱に立ちあがった武将。出身は桓武平氏、祖父高望王は上総介、父良将は鎮守府将軍をつとめた家柄で、下総を基盤に勢力をひろげ、叔父国香を殺して、常陸、上野、下野の国府を攻め落とし、未曾有の戦いを国家に挑んでしまったのです。  

 この乱以降、関東地方に源氏の勢力が伸長。11世紀前半、平忠常の乱を鎮めた源頼信、11世紀後半の前九年の役後三年の役を平定した源頼義・義家と相模、武蔵、上総、下総の坂東武者との関係が強いものとなってくる。 

 安倍貞任(1019~62)は奥州の豪族で、父頼時とともに陸奥を押領して貴族国家に対抗して国司と争う。朝廷は源頼義(998~1075)を陸奥守に任命して安倍の反乱を鎮圧。東京都足立区の白旗塚には源義家の奥州遠征の伝説がのこっている。


2-2「足立氏」の先祖;武蔵武芝

武蔵武芝 むさしの-たけしば)は 平安時代中期の豪族。
 武蔵足立郡司を世襲し,判官代を兼任した。武蔵氏は767年(神護景雲1)に丈部直不破麻呂(はせつかべのあたいふわまろ)らが武蔵宿禰(すくね)姓を賜姓したことに始まる。 

 『将門記(しょうもんき)』によると、938年(承平8)2月、武蔵国足立(あだち)郡司判官代である武蔵武芝は、武蔵権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)、武蔵介(すけ)源経基(つねもと)と対立した。平将門(まさかど)がこの対立に介入したことから、将門は源経基により朝廷に謀反の罪で訴えられる契機となった。 

 武蔵氏は、平安後期より武蔵一宮(いちのみや)氷川(ひかわ)社(埼玉県さいたま市大宮区)の宮司職を世襲したと伝えられる。


2-3「足立姓」の祖は;足立遠元

 足立遠元は 源義朝-頼朝-頼家-実朝と源家四代に仕えた武蔵国足立郡の豪族。元々 藤原氏で、祖父の代より源家家人となり、父・藤原遠兼のとき、初めて武蔵国足立郡に在住、遠元のとき 地名より足立氏を名乗り 足立姓の祖である。

 考証によると、遠元は1130年代前半の誕生であるとされる。出自についても不明な点が多い。父は藤原遠兼。母は豊島康家の娘。

 平治の乱に参陣し源義朝に仕え、治承寿永の乱においては、 源頼朝が下総国から武蔵国に入ったときに駆けつけた。公文所寄人として、幕政に携わり、建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、布衣侍十二人の内に選ばれて参院の供奉をし,頼朝の推挙で左衛門尉に任ぜられる。後には十三人の合議制の一人に加わる。「吾妻鏡」承元元年(1207年)3月3日の記述を最後に史料から姿を消している。 

 足立遠元は源義朝-頼朝-頼家-実朝と源家四代に仕えた。遠元は平治の乱以前より、若くして義朝に従い在京し、乱の直前に朝廷から右馬允(うまのじょう)の除目を賜わっている。平治の乱での「待賢門の戦」は、遠元の武名を高めた。『平家物語』によれば、義朝が平清盛と戦った時、味方の武将金子家忠が矢を使い果たし、刀は折れ困っていた。その場に通りあわせた遠元は、功名を競いあっているライバルではあるが、金子に自分の郎党の刀を与えたのであった。治承四年(1180)、源頼朝の旗揚げも時、遠元は武蔵武士のなかで一番に頼朝の陣営に参向、のちに、頼朝は足立郷を遠元に安堵している。

 その後の源平合戦では、佐々木高綱と梶原景季の先陣争いで名高い「宇治川の合戦」にも遠元は源義経の寄騎として参戦し、熊谷・畠山の諸将と宇治川の渡河を競った。元暦元年(1184)八月、頼朝が公文所を新設し、京都から行政事務等に詳しい大江広元らが寄人として招かれた。このとき、遠元も寄人となった。当時、武将が選ばれたことは特筆すべき人事であった。遠元は武勇のみならず、行政の才に長け、能力的にかなり高い人物であったようだ。


<足立姓の系図>

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足立姓の遠祖は「足立遠元(とうもと)」である。
「足立遠元は、藤原氏で、祖父の代より源家家人となり、父、藤原遠兼のとき、初めて武蔵国足立郡に在住、遠元のとき初めて、地名より足立氏を名乗っている」とされています。
足立氏の系図.pdf
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2-4 丹波足立氏の祖;足立遠政

調査中


<「足立姓」の数と全国分布>

 インターネット「全国の苗字」で検索すると、足立氏の世帯数は22,899世帯あり 姓氏別人口の234番目にあたる。安達氏は19,148世帯で 姓氏別人口の285番目である。足立と安達はルーツは一緒と言われていますので 合計で42,047世帯、109番目にあたる。全国には苗字が11万あると言われているので まぁ多い方である。


<「足立姓」の全国分布>

 足立姓の分布は

東海地方(美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆)

・近畿地方(丹波、京阪神、兵庫県、京都府、大阪府)

・山陰地方(伯耆、出雲)

・九州地方(豊前、豊後)

偏在しています。

足立姓の発生が東国と言われている割には 関東地方には少ない。 


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足立姓の発生は坂東。鎌倉時代に近畿地方(兵庫丹波、京都等)に移住,移封。戦国時代に東海地方、山陰地方、九州地方に。関東地方には少ない。
足立姓発生と全国分布.pdf
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<「足立」と「安達」姓の違い>

 足立、安達の苗字についても地名姓であったことは、まちがいないですが、同じ発音から両姓が混同されて使用されたとしか考えられない場合もあったのです。 「あだち」には古代より武蔵国にあった足立郡と、陸奥国にあった安達郡とがあり、そこの住人が足立、安達姓となったのです。

 神戸新聞出版センター刊行の「兵庫県大百科事典」には、足立氏の項で次の記述があります。

 中世丹波の土豪。「丹波志」には、武蔵国足立郡領家職本主であった藤原遠兼の子遠元が、足立郡地頭職を拝領して足立氏を称し、その子遠光が丹波国氷上郡佐治郷を賜って下向土着し、一族が丹波に繁延したという。佐治郷の山垣城を居城とし、鎌倉中期の禅僧遠谿祖雄は山垣城主足立光基の子、室町、戦国期にもその子孫が丹波の国人として活躍したが、荻野直正に圧迫され、ついで明智光秀の丹波制圧にあって滅ぼされた。遠坂城の安達氏も足立氏と同族という。

 足立郡は、現在の埼玉県南東部と、東京都足立区全域にあたる地域であります。また、安達郡は福島県の中央部ニ本松市中心で、東北本線には「安達駅、二本松駅」があります。足立については、武蔵国分寺に使用されていた古瓦に「足」の字があるものが出土しています。「続日本紀」にも足立郡名がでていますし、足立郡の人丈部(はせつかべ)直不破麻呂が武蔵の国造になったとあり、「西角井系図」には西角井家が大化改新以来代々足立郡の郡司の家であったとあります。

 一方の安達については「延喜式」に安積郡から分立した「安多知」が「安達郡」となったとされています。仁平元年(1151)に惟宗定兼が本領主として太政官厨家に安達郡を寄進しましたことから「安達荘」が成立していますし、その安達荘地主職は、定兼から小槻(壬生)隆職に伝えられ、代々壬生家が伝領されています。建武3年(1336)に北朝の光厳上皇より壬生匡遠に安達荘の領有が安堵されていますので、のちに二本松に本拠をすえた畠山氏が奥州管領となるまで壬生家の支配地でありました。

 この安達郡の安達姓は高麗系安達氏と坂上姓安達氏があるといわれていますが、「尊卑分脈」にのせられています小野田三郎兼盛は奥州安達郡に住んでいたので、その子孫が足立郡に来て安達氏を名のったというのは無理があり、鎌倉御家人の安達氏はもともと足立氏であり、陸奥国の安達郡とは無関係だったということです。

 鎌倉御家人の安達氏は北条氏との姻戚で栄えましたので、足立氏と区別され安達の字が使われます。安達景盛の時代に秋田城介となり、その職は世襲されましたので、城氏ともよばれています。また安達泰盛の時代には、引付衆、秋田城介、評定衆となり、更に弘安5年(1282)には陸奥守に任ぜられています。このことから陸奥に関係のある人物として、安達氏の出身を陸奥安達郡とされたか、霜月騒動で権勢をふるっていました泰盛を、内管領平頼綱が策謀によって全滅させてしまいますが、安達氏の出身まで陸奥国にされてしまったということなのでしょうか。安達氏は足立氏だったのです。